陶冶するためのもの⇒嫌悪の対象⇒義務⇒喜び|エルムクリニック 内科・消化器内科|長野県飯田市の内科・消化器内科

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陶冶するためのもの⇒嫌悪の対象⇒義務⇒喜び

  表題は勉強に対する自分のイメージの変化を表したものである。

 幼い時から青年期まで、「勉強」はクリスチャンの礼拝、神道の人のお参りのように、自分を清めてくれるものだった。それはおそらく家庭環境によるところが大きかったかも知れない。女子歯科専門学校を中退せざるを得なくなってそのことが心残りだった祖母、高校教師をしていた父、教育ママだった母。彼らの話題は自分の青春時代、いかに勉強してよい成績を取ったかとか、秀才と言われていた人たちの逸話が多かった。その影響があってか、勉強することで自分が高まっていく気がしていたし、良い成績を取ることはその証(あかし)のようなものだった。

 が、その気持は成長過程においてだんだん崩れていった。最初は中学2年生のときだった。それまでは、成績がよいのに気が弱い面があったことで男子から人気があったし、女子からは敬して遠ざけられてはいたが一目置かれていた。けれども、同級生たちが思春期に入るにつれて、勉強ができることが、人気者になったり、異性にモテたりする要素ではなくなった。そのためか、トップクラスだった成績が、やや成績がよいという程度に落ちて行った。なんのことはない。自覚はなかったが、親の承認、同級生たちの人気を得るために、さらに異性にモテたくて勉強していた面があったようだ。

 それでも中学3年生になり、受験を意識してからは再び勉強に励んだ。高校受験の次は、大学受験に向かった。地方の進学校の教師だった父は、しばしば勉強して東大や京大に進学した教え子の話をしていた。その影響もあってか、いわゆる一流大学に進学することが人生の目標のようになっていった。が、その先はどうする・・・とりあえず、国立大学の理学部に進みーけれども、それが本当に自分の望んでいることなのか?漠然とした違和感を感じていたある日、ふとひらめいた。

「そうだ、医学部だ。人体や疾患のことに興味があって、人と接することが好きで、現代の医療に疑問を持っていてなんとかしたいと思っている私にとって医師はぴったりの仕事だ」

 その気持は神の啓示ともいうべく、突然に与えられ固定された。ゆるぎないものを見つけた喜びに満たされた一方で、両親の賛成を得られないのではないかという漠然とした不安があった。その不安は的中し、いや、父親の反対は想像以上に強力であり、父を恨みながらも父に愛されたかった自分は医学部を諦め、結局後で専攻を決めることのできる北大の理類に入った。正直なところ、決断を伸ばしてみたものの、専攻をどうするか、大学を出たあとどうするか、全く心が定まらなかった。しかも、当時の北大の男子は、同じ大学の女子を女性として一段下にみる傾向にあり、「北大の女は女でない」と言い放った。かと言って学友としても見てもらえず、無視されることが多かった。なんのために今まで一生懸命に勉強したのか、価値観の根底が崩れた。それでも、まだ「勉強信仰」のようなものはかすかに残っていて、勉強に打ち込もうとしばしば試みた。が、心も体もついていけなかった。開業前、東京の自宅が狭すぎて私の荷物を置いておけない状況にあって、泣く泣く北大時代の教科書を断舎離したが、そのレベルの高さに今更ながら驚いた。私は、北大、理科大、杏林大学と3つの大学を出たが、その中でも北大の講義レベルは断然高かった。当時の友達が「こんな素晴らしい大学にいたのに、勉強しなくて後悔!」と言っていたが、同感である。が、どうしても気持ちを勉学に向けることができなかったので仕方あるまい。迷える青春時代を送った北大時代。留年、休学を繰り返す中、「勉強信仰」から脱却して、「キリスト教信仰」に導かれた。

 「勉強信仰」からは脱却したが、それでも勉強することは価値あることという思いは残っていた。教師になってからは、勉強よりも仲間との付き合いが大事という教え子に対し、勉強の価値を伝えようと試みた。ちなみに教え子たちは今働き盛りであり、社会的に活躍し、安定した家庭を持っている子が多い。彼らの価値観は正しかったのかなあ、と今は思う。

 勉強に対して否定的な感情を抱くようになったのは、杏林大学入学後だった。ある一定数の学生は医学の勉強以外は無駄なことという姿勢を取っていた。例えば、ドイツ語が医学部の必須だった昔の医学部とは異なり、第二外国語は選択科目になっていたが、「そんなものを取ると医学部の勉強に差し障る」と言って取らない人が多かった。私はせっかくの機会だから新しい言語を勉強したいと思い、スペイン語を選択したが、受講者は4人だけだった。他に、ドイツ語、フランス語、中国語の講座はあったが、いずれも選択者は片手で数えられる状態だった。その他にも、なにかにつけて、「勉強に差し障るから」と他のことを避ける同級生が少なくなかった。大学の先生方も、低学年のうちから、「国試、国試」と強調する傾向にあった。成績の評価も厳しかった。点数の足りない教科が1つでもあると他の成績が良くても留年となり、私も全体では上位1/3以内に入っていたにも関わらず、2回も留年する羽目になった。

 今までは勉強することが義務でありながらも、新しいことを知る喜びが伴っていたのだが、医大生時代は勉強にこだわる周囲を嫌悪する一方、単位を落とす恐怖でしかたなく勉強していた。「勉強はその字の通り、強いて勉めるのだ」と言う人もいるが、自分にはそういう感覚は合わなかったようで、医大生時代に勉強したことはほとんど頭に残っていない。そんな中、ある同級生の女子学生から「将来知らないために患者さんを助けられなかったら困るでしょ、だから私は勉強するの」と言われて、その時ちょっと「なるほど」と思ったものだった。

 開業医となり、基本的に医師が自分ひとりしかいない状況になって、その女子学生の言ったことを実感する。自分の知識不足で患者さんに不適切な診療をしないで済むように、日々の診療の中でわからないことがあるとすぐ調べ、勉強会にもただ顔を出すだけではなく、自分なりに学んだことをまとめるように心がけている。そんな中で、やれ診療報酬改定だ、頼まれ原稿もあり、頼まれた看護学校の講義の準備もあり、将来心の救いも手掛けたいと始めている通信教育もある。

 

 あれやこれやで最近はパニックになってしまっていた。

 そんな中、在宅当番で何人かの皮膚疾患に遭遇し、学会で買ったもののしまいっぱなしになっていた皮膚科の本を開いた。そうだったのか、と納得できる記述があった。さっそく、目の前の診療に役立てることができた。思わず、「空いっぱいの幸せ」という歌が口をついて出てきた。

 そういえば、実習が終わった医大時代6年生の講義中、大抵の講義は単位をとるための出席のために座っていて内職の時間だった。そんななか、法医学と漢方の講義のときは、私を含め学生たちは思わず内職の手を休めて講義に聞き入ったものだった。その二人の先生は仕事や研究に心から楽しんで取り組んでいて、その先生の喜びが自然に伝わったのだ。法医学も漢方もほとんど国試には出題されないにも関わらず、講義に引き込まれたのだ。

 「喜びをなせ」と聖書も言う。とかく義務に押しつぶされそうになる日常の中で、勉強中、診療中に感じた喜びを大事に、自分自身にも周囲にもその気持ちを撒いていきたいというのが、最近の心境である。さあ、義務感から開放され、喜びを持って出勤しよう。