再び学校の先生に|エルムクリニック 内科・消化器内科|長野県飯田市の内科・消化器内科

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再び学校の先生に

 25年ほど前のこと。某都立高校の離任式に呼ばれ、段の上から生徒達を見た。「あっ、もうこの世界には帰れないのだ」と寂しさを感じたものだった。まるで、亡くなったあと、幽体離脱して、生きていた世界をあの世から見ているような気持ちがした。

 思春期の頃、「私の進むべき道は医学部だ」と天からの啓示のように感じ、その思いは父親の大反対でその道を諦めてからも続いていたが、教師になる頃には、「第二志望の職業ではあるが、これが自分にあった道」と感じるようになっていた。医学部への未練は挑戦すらしなかったいくじのない自分に対する自己嫌悪が残っているだけだったかもしれない。

 そんなおり、担任をしていたクラスで地元の愚連隊と結びついた恐喝事件があり、その対応で疲れ切っていたとき、「人生一度しかないのだから、やりたいと思ったことをやったら」という強い勧めがあって、医学部受験に踏み切ったのだった。

 最初のセンター試験で8割。教師をしながら、しかも3ヶ月の準備期間しかなかったにしては上出来か。次の年には、医学部の合格ラインである9割はいけるだろうと踏んでいた。が、2次試験のできは合格ラインには達していたものの、相変わらずセンターは8割しか取れなかったのだった。

「次に不合格だったら、医学部を諦めて、教師の道一筋でいこう」と思い、それでもせめて受験直前は勉強に集中したいと、学校医の勧めもあって、1月~3月の休職を願い出た。それは叶わず、話し合いがこじれて、結局12月末に都立高校教師を退職した。

 結局、その年のセンターも8割少ししか取れず、願書を出した国立大学には足切りにあい、併願していた杏林大学に滑り込んだ。医大生生活も、その後の医師の道も、決して平坦ではなく、そのたびに、「ああ、教師が私の道だったのに、むりやり医学部に行ってバチが当たった」と後悔することも多かった。医師になったことを肯定的に捉えられるようになったのは、医師と名乗れる程度の働きができるようになってからであり、それはちょうど教師を続けていたら定年退職する年齢でもあった。

 折しも、看護専門学校の講師の話があったとき、それが専門外の呼吸器ではあったが、一も二もなくお引き受けした。

 来る9月5日、初出勤。実に25年ぶりの教壇。

 講義準備に右往左往していると、口の悪い友人が、「そんなの、学級崩壊して終わりだ」という。が、学級崩壊どころか、皆さん、一言も聞き漏らすまい、と一生懸命なのだ。それもそのはず、最小年齢20歳、上は58歳。介護の仕事、クリニックの受付、主婦など様々な経験を経て入ってきた方が多いのだ。中には私のように、親の反対で看護師に挑戦できず、ようやく夢を実現するために入学したという人もいた。

 そういう人たちを相手にする講義なので手抜きは許されない。

「学生のうちは6割取れれば合格、医師国家試験でさえ、7割未満で合格。でも、人に教えるからには10割でなければならない。がんばりますので、ついてきてください」

という意味のことを講義の最初のほうで述べた。なかなか10割とはいかない面もあるが、内容を自分なりに理解し、それをわかりやすく説明しなければならない。講義の準備を進めるにつれ、酸素、二酸化炭素の運搬、痰や咳の出る仕組み、人工呼吸の原理など、曖昧な理解のままでいたことに気づいた。

よって、講義の準備を始めてからというもの、受験の追い込みのような毎日である。

講義はあと4回。疲労は大きいが、未来の看護師さんを育てるお手伝いをするという意味でやりがいがある。なお、もう二度とすることはないだろうと思っていた第二の天職でもあった教師の仕事を再びすることができた。人生、回り回って、うまくいくようにできているようだ。