開業2周年記念会の日の明暗
この4月3日で、開業2周年を迎えました。開業時、1周年、2周年とクリニックの周囲は桜の花が花盛りでした。
開業記念日が桜の季節なのは嬉しいです。
私事でいえば、1周年は自己資金でなんとか持ちましたが、2周年はクリニックの収入と銀行さんの協力がなければ迎えられませんでした。
スタッフを始め、色々な人の協力がなければ成り立ちませんでした。
で、今回はお世話になった人を招いて、4月6日に開業2周年祝いをしました。(残念ながらスタッフの都合がつかなかったので、スタッフとは別の日にランチをしました。)
会場は「まつり」で。
ここのマスターにも、お酒を飲みたいとき、温かいものが食べたいとき、愚痴をこぼしたいときにお相手をしてくれたばかりではなく、講演会の手伝いをしてくださったり、常連さんを紹介してくださったりして、公私ともにお世話になったのでした。マスターを含めて8名。
提携銀行の方、社労士さん、薬局の方、代診を頼んでいる松岡先生、開業のきっかけを作ってくれ、認定医、専門医をとるために力になってくれた医大生のころからの友人、友人の友人で現在市役所の職員でJICAにいたこともあり、私に共感してくれたばかりではなく、当院に手伝っていただく看護師さんを紹介してくれた方、マッサージの会社を経営していてお互いに患者さんを紹介しあっているだけではなく、当院の集客について真剣に考えてくれている方。
多彩、多才な方々が集まって話がはずんでいました。
その中、弟から電話。そのたびに、席を外して電話に出たのでした。
「今、病院から電話があって、『急いで来い』だって」
「呼吸が止まったって」
そう、実は、私の妹が病にあってもう助からないと告知を受けていたのでした。会の少し前に入院している病院に問い合わせると、意識はあり、会話もできるとのことだったので、次の日は松岡先生に代診をお願いし、最期に妹と話をして来ようと思っていたのでした。
一人が帰ったのをきっかけに、「東京に行く用事ができた」と私も席をたったのでした。
さかのぼること2年前、開業初日。妹は開業祝いの花をもって、遠く埼玉県から開業祝いに来てくれたのでした。
ついでに診察も受けたいとのことで、「真理ちゃんの超音波の練習台になってあげる」と甲状腺に腫瘍のあることを打ち明けました。
左側に径2cm強の腫瘍。境界明瞭、均一で血流も少なく、良性のものと思われました。
近医でフォローされているとのことだったので、特に気にも止めていませんでした。
ところが、今年の3月半ばに「1月中旬に腫瘍が7cmにもなって専門病院に紹介状を書いてもらった。今、少し息苦しい」とメールが来ました。
癌化したのかな、とも思っていましたが、甲状腺の癌は未分化癌という種類のもの以外、生存率はいいはず。超音波の所見をみても悪い感じではなかったし、未分化癌は甲状腺癌の1,2%でしかないはず、とこの時点ではまだ楽観視していました。未分化癌は細胞が、この細胞は甲状腺へということが決まっていない幼若な細胞になっている癌のため、進行が早いのです。一方で、頭の片隅で、未分化癌の可能性も考え、「春分の日にみんなで会うのをキャンセルする」という母の知らせに対し、「今度なんて言っていると、永遠にその機会がないかもしれないので強行したほうがいいと思う」とメールしました。
私の懸念はあたってしまい、検査結果を聞きに行くはずの3月24日には病院に行くことすら忘れているほど病状は悪化していました。(脱水と脳転移のためと思われます)
急遽、クリニックを休診にして妹が搬送された病院に向かいました。医師の説明によると、甲状腺未分化癌に罹っており、食道を圧排して食事摂取はおろか、水分摂取もできない。点滴もとれない状態なので治療法もないとのことでした。
上記の写真は教科書から取ったものですが、医師から見せてもらったCT画像も上記のように腫瘍が大きくなって器官の位置が大きく変異していました。上方、向かって左にある黒い空間が器官です。器官は普通は中央にあるのですが、腫瘍に押されて右に大きくずれるのでした。(CTでは、左側に写っているものが組織の右の部分のものなのです)
医師に「2年前にエコーで診た腫瘍はたちのいいものと思われた」と伝えると、未分化転化といって、高分化型の腫瘍細胞が突然変異を起こし、未分化のものに変わることがあるとのことでした。最近の研究でわかったのかな、と教科書を読み返すと、未分化転化は私が医学生の時代から推測されていました。
せめて腫瘍が少し大きくなった時点で相談してくれたら、1年後私のクリニックに遊びにきてもらってついでにフォローしていたら、今頃生存できていたかもしれないと残念な気持ちがあります。
一方、入院中、我々姉妹と疎遠になっていた弟が毎日妹の見舞いに行き、甲斐甲斐しく世話をし、幼いときの思い出話を妹に聞かせたようですし、クリスチャンである妹のところへ毎日のように牧師さんをはじめ、教会の仲間が代わる代わる見舞いに来てくれてお祈りしていったようで、病の中にあって魂は幸福だったのではないかと感じました。
「今苦しい?気づいてやれなくてごめんね。でも、みんなに愛されて幸せだね」
と声をかけました。通じたかどうかわかりませんが、病室を去るとき、手をあげて合図してくれました。
急変の知らせを聞いてかけつけてみると、遺体の表情は笑っているようで、いまにも起きてきそうでした。残念なところはあるけれど、牧師さんが葬儀の中で述べたように、
「地上の務めを終え、天に召された」と感じ、涙は出ませんでした。妹が入院したのは、好きだった図書館司書生活40年ののち、嘱託で働いていた公民館を退職する1週間前でした。
これからも毎年、4月のはじめにはクリニックの近くの桜は咲くでしょう。
これからは、桜の花は、開業の喜びと、妹の命日を思い起こさせることでしょう。