「年賀状じまい」の風潮に敢えて逆らう
- 2025年12月1日
- エッセー
受付事務の方が、「先生、『喪中欠礼』を出さなきゃいけないのではないですか?用意しましょうか?」と声をかけてくれた。
渡りに船だった。住所録はあるのだが、どうやって用意したらいいのか、憂鬱だった。
自分は年賀状の他に、クリスチャンの友人・知人と心の友と思っている人には、年賀状ではなく、クリスマスカードを送っている。
今回は普段年賀状を出す人には事務の人が用意してくれた「喪中欠礼」のハガキを、クリスマスカードを出している人には「喪中欠礼、お手紙」を出すことにした。
そのお手紙には亡くなった妹に関するエッセーを同封した。
ハガキには、各人のことを思い浮かべながら一言ずつ添えた。
朝、晩コメダや元町珈琲に籠もって執筆?、連休中遊びに出るために泊まったホテルの中でも書き続けて、ようやく完成した。計30名。人数の割にはかなりの時間をかけたと言える。
ところで、去年二名の方から「年賀状じまい」の年賀状を受け取った。一人は家庭の事情で忙しくなり年賀状どころでなくなったようであり、もう一人は若い頃家飲みに来てくれたり、一緒に飲みに行ったりしたこともあったが30年以上も年賀状のやり取りだけになっていたのだった。
彼らの真似をしたわけではないが、病院やクリニック宛の年賀状に関しては年賀状じまいを書くように受付の人に指示をした。それは前の受付嬢の負担を軽減するためであった。
一方、転職を重ねた私はあちこちに友人・知人がいる。年賀状を通じてでも彼らとつながるのは意味があり、近況を伝え合うだけでほっこりする。それがきっかけで、「久しぶりで会おうか」ということにつながることもある。
文具コーナーに行くと年賀状じまいの年賀状が売られている。
懸念するのは断捨離と同じように、それがファッションのようになって、自分の本心と違うことをするケースもあるのではないだろうか、と思うことだ。
心から、そろそろ年賀状の準備もきつくなって、「この辺で『年賀状じまい』をしようと」と思うのならいいが、ある程度の年になったら、そうしなければいけないように感じてしまうのは本末転倒と思うのだ。
多忙なこの頃、あえて、喪中欠礼に時間をかけた次第である。