コーヒーに生涯を捧げている人ー前編|エルムクリニック 内科・消化器内科|長野県飯田市の内科・消化器内科

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コーヒーに生涯を捧げている人ー前編|エルムクリニック 内科・消化器内科|長野県飯田市の内科・消化器内科

コーヒーに生涯を捧げている人ー前編

5月8日-10日、横浜パシフィコにて、消化器内視鏡学会に参加した。

今回は、実際の診療のヒントになることも多く聞けて有意義な学会だった。

何よりも大きかったのは、コーヒーに生涯を捧げている「川島良彰」さんの生き方を垣間見たことだった。

えっ、なんで内視鏡学会にコーヒーの話って?

と思うことでしょうね。

 実は内視鏡学会では、特別講演で内視鏡とは関係がないけれど、有名人や面白い生き方をしている人を呼んで講演をしてくれるんです。一昨年は元日本ハム監督の栗山英樹氏の講演があり、選手時代の苦労や大谷を育てたときの話をしてくださいました。選手としても、監督としても活躍したあの有名な落合博満氏を招いたこともあったようです。

 内視鏡学会開催中は、いつもレストランやホテルの部屋で、学会で学んだことのまとめをするのですが、今回はあまりにも川島良彰氏の講演に惹かれたので、著書「私はコーヒーで世界を変えることにした。」を読破することを先に行いました。

 川島良彰氏は静岡県生まれ。父親はコーヒーの焙煎卸売業を営んでいて、自宅には焙煎する前の生豆を保管する倉庫があったそうだ。倉庫には生豆がぎっしり詰まった麻袋が積まれていたという。生豆の品質を守るためには湿度が低く、風通しのよい環境が必要で、川島家の倉庫もそのような環境に保たれていた。幼稚園時代の良彰君は、ひんやりした麻袋の上に寝転ぶのが好きだったという。その習慣は小学校入学後も続き、寝転びながら本を読むことも加わった。ハンモック代わりにした麻袋だったが、その麻袋には産地ごとに異なるデザインと言語がプリントされていた。ブラジル、エルサルバドル、コロンビア・・・南米へのあこがれが芽生えた。それに拍車をかけたのは、ラテン音楽との出会いだった。小学生の時、父のコーヒー店にアルバイトに来ていた学生が、プエルトリコ出身の盲目のギタリスト、ホセ・フェリシアーノのレコードを聞かせてくれた。そのリズムとメロディーは良彰少年の心を揺さぶった。「僕は絶対に中南米に行くのだ」という思いが自然に生まれていった。

 

 父親はもともと県庁の土木課に勤めていたが、コーヒー好きが高じて焙煎業を始めたという。静岡市内の喫茶店のマスターに、父親のコーヒー豆のファンがいて、思春期の良彰少年はその店に通ったという。焙煎をするときの父親は真剣そのもので、焙煎中に話しかけると「気が散る」と叱られたらしい。ラテン音楽と出会い、焙煎する父親の背中を見て、コーヒーの香りに包まれて育った良彰少年は、いつのまにか「ブラジルに行ってコーヒー屋になりたい」思いにかられ、ブラジル大使館に手紙まで書いたという。両親は、今は勉強するときだから、と中学を卒業したらとか、高校を卒業したらと言い含めた。

 いつになったらブラジルにいけるんだろうー だが、機会は思わぬところで与えられた。父親がエルサルバドル大使のワルテール・ベネケ氏主催の全国のコーヒー業者を対象とする視察旅行に参加したことをきっかけとして、ベネケ氏と父親の話し合いで、エルサルバトルの大学、UCA(Universidad de Centro America)に行くことに決まったのだった。メキシコ、エルサルバトル、ブラジルの位置関係も知らなかった良彰少年はこうして子どもの頃から憧れていた南米に旅立つことになったのである。とはいえ、家族、友人、知人と離れて一人異国、それも知らない地に旅立つわけで、搭乗する前、良彰青年(18歳になったので呼び方を変える)はわくわくした気持ちよりも、涙が出てしまったという。

 その心境には共感できる。若い頃の私も北大に進学するために札幌へ向かう当時の青函連絡船のデッキから夜の海を眺めて、これからの行く末に暗黒を感じ、不安が襲ってきたものだった。自分の場合、医学部への進学を諦めての北大行きであり、ただよう波のような生活だったが、それでも北大時代に心の一生の基礎ができたといえる。南米でコーヒーを極めたい気持ちで旅立った良彰青年にとってはなおのこと。一生の基礎となるものをエルサルバトルで得た。

 ベネケ大使からは、”Siempre listo”(スペイン語でsiempreは常に、listoは準備の整ったという意味。つまり、常に準備をせよ)と繰り返し教えられた。良彰青年は、ベネケ大使の教えや生き方から、street smartという生涯を貫く信条を得た。smartとは日本語ではスタイルがいいという意味で使われがちだが、欧米では頭がよい、賢いという意味に使われることが多い。street smartとは、実践力における賢さを表し、川島良彰氏の表現を借りれば、「どんな状況でもなんとかする」生き方である。川島氏は、その後、クーデター、ハリケーン、地震、山火事、強盗、使用人の裏切りと危機的な状況にさらされたが、そのたびに、street smartの信条通りに知恵を絞って乗り切った。

 ちなみに、street smartに対して、book smartという言葉があり、それは勉強ができるという意味での賢さを表す。book smart崩れであり、street dull(そういう英語があるかどうかは?だが、実践力、世渡り力に乏しいという意味で使う私の造語)である自分。医師になり、開業して、street smartである必要を感じ、劣等感をおぼえていた。でも、考えようによっては、曲がりなりにも、book smartであったおかげで、教師にもなれたし、医師にもなれた。その過程で色々な人に助けられた。川島氏のようなstreet smartとは程遠いが、自分に与えられたものを活かして晩年を生き抜くことにしよう。

 川島良彰青年は、国立コーヒー研究所を見つけ、そこでコーヒーについて学ぶことになる。最初は相手にされなかったが、根気よく座り込み、所長を待ち続けた。所長の姿を見つけると「僕はコーヒー屋の生まれで、コーヒの勉強をすることを切望している。小学生の頃から持ち続けていたその思いを実現するためにエルサルバトルにやってきた。だから、この研究所で勉強させて欲しい」と丸暗記したスペイン語で訴え続けた。ある日所長室に招かれ、若手研究者ウンベルト・アギレラを紹介され、2年間のカリキュラムでコーヒー栽培のすべてを教わるように言われたのである。アギレラ先生の指示の元、川島氏は病害課、虫害課、遺伝子課、育種課、化学課、農学課、土壌課に数ヶ月単位で通った。それぞれの研究員が、全国の協力農園に実験区を持っていて、そこも回ることができた。研究者たちからばかりでなく、テクニコと呼ばれる技術労働者からも神業の技術を教わった。研究所の中だけの勉強ばかりではなく、日本大使館の書記官だった人の勧めもあって農園で労働者と一緒に働くこともして農園の作業を肌で知った。

 入学したUCAには休学届を出した。川島氏にとって、国立コーヒー研究所こそが『大学』だったのだろう。こうして子どものころ漠然と憧れていたコーヒー屋という仕事を天職だと感じるようになっていった。

 彼の成年期を支えた伴侶との出会いもあった。エルサルバトルについてまもなく、海外青年協力隊の一人が急病になり、代わりに中学生の授業を行い、人手不足だからということで、小学生の担任を2年半受け持った。彼女は協力隊に来ていた女性だった。彼女は芸大出身で、「音楽を辞めたかったから、協力隊員になった」という不思議な女性だったという。彼女は良彰氏との間に二人のお子さんをもうけ、困難に遭うたびに、原点に立ち返るようにと彼を励まし続けた。

 良彰青年が23歳のとき、軍事クーデターが勃発。留学先として籍をおいていた大学、UCAの神父さんが大学構内で暗殺され、軍部批判をしていたオスカル・ロメロ大司教がミサの最中に狙撃された。そんな中でも彼の最初の妻は、「エルサルバトルにとどまるべきだ」と励まし続けた。だが、次から次へと事態は悪化していく。彼をエルサルバドルに招き入れ、夢の扉を開いてくれたベネケ大使が射殺される。妻が二人目の子供を妊娠し日本にいったん帰国することを決断。良彰氏はロスアンゼルスに疎開してタコス屋でバイトをする。ロスアンゼルスに来て4か月目、UCC上島コーヒーの創業者、上島忠雄会長の訪問を受ける。上島会長は良彰氏に、計画中であるジャマイカのブルーマウンテン農園開発の技術者へと熱心に誘った。しかし良彰氏はエルサルバドルに戻って研究生活を続けたい気持ちが強く、この申し出を断った。上島会長は、「エルサルバドルの状況が変わらんと、日本に戻ることがあったら必ず連絡をくれ」と連絡先を渡した。

 エルサルバドルの政情はさらに悪化していた。研究所は縮小され、さらに恩師のアギレラ先生がゲリラに脅迫されてグアテマラに脱出していた。そういう状況では研究できる状況ではなく、後ろ髪をひかれる思いでエルサルバドルを去った。約束通り、上島会長に連絡を取った。単に挨拶とお礼のつもりで連絡したのに、「ジャマイカ現地法人取締役 農園生産部長」の肩書をあけて待ってくれていた。良彰氏に限らず、人生で八方ふさがりになるときは、転機となる印であることも多い。まるで「こちらへ向かいなさい」という天の声のようである。

 良彰氏は、「それはうれしい!やらせてください」と言ってすぐに引き受けたわけではなく、農園を作るのに十年かかること、農園開発はできるが経営には素人であることを告げたうえでその仕事を引き受けた。そのエピソードに良彰氏の誠実さを感じる。

 世界的に有名なコーヒー「ブルーマウンテン」の生産地があるジャマイカ。が、そこでのコーヒー農園開発の仕事は一筋縄ではいかなかった。まずは治安が悪く車を停めたら強盗団に襲われる危険性があった。生活用品や食料品は品不足。停電、断水は日常茶飯事。良彰氏は日本に残している妻子を呼ぶことができなかった。農園に行ってみると栽培技術も遅れていた。労働者も着任早々ストライキをやったりして、ふてぶてしかった。良彰氏は、事細かく指導しながら、労働者と一緒に働いた。こうして労働者たちは川島氏に一目おくようになっていった。 経営には素人と言いながらも、苗を植える作業はさぼらないようにと歩合制にし、雑に扱うと成木になったときに影響がでる苗を植える作業は日当制にしたりと工夫した。

 農園にマリファナが植えられていたこともあった。コーヒー栽培に適している地はマリファナにも適しているのだ。警察に通報したりすると、報復が待っている。良彰氏は黙ってマリファナを抜き、焼き払った。そんなおり、上島会長夫妻が訪問してくれた。良彰氏は辛くて油っぽいジャマイカ料理は口にあわないだろうと、日本から持ち込んだカレールーとそうめんを茹で会長をもてなした。ジャマイカの実情を知った上島会長は日本に帰ると「ブルーマウンテン基金」を立ち上げ、日本食を買ってジャマイカに送ってくれた。出張者には米を持たせ、駐在員のためにと置いていってくれた。仕事兼住まいは海抜900mの元ジャマイカ総督の山荘。庭園とプール付き。山の住民は親切で、付近の治安は街の方と比べてよかった。良彰氏は着任半年目でやっと妻子を呼ぶことができた。

 その後も平安な日々とはいえなかった。腹心の農園長が強盗に襲われたり、山火事にあったり、良彰氏自身が肝炎で倒れたりした。それを乗り越えながらも、上島会長の支援もあって日常生活は安定していった。交渉や接待の仕事が増えていったある日妻に言われた。「あなたがコーヒーを一生の仕事にすると言ったから、今までついてきたのよ。今月は何日フィールドに行ったの」

 そうだ、自分はコーヒー農園が好きなんだ!妻と一晩中これからのことを話し合い、家財道具を売り払ってキャンピングカーを買い、中南米を旅して、ここぞと思った場所に定着することにした。UCC上島コーヒーには辞表を出した。

「君はいったい何が不満なんだ」

「不満などありません。ただ、原点に返りたいだけです」

会長はハワイ島のコナに良彰氏を連れて行き、ここを開発するようにと言った。

「すみません。妻と中南米に行くことにしました。ですから、コナの農園開発をお引き受けすることはできません」

「そうか、せやったら軌道に乗るまででええから手伝ってくれ」

というわけで、ハワイでの農園準備が始まった。そんな折り、ジャマイカがハリケーンに襲われた。

連絡が取れなかった家族や社員にはすぐ会うことができたが、コーヒーの木もシェードツリーと呼ばれている日陰用の木もすべてなぎ倒されていた。

「これは天命。ハワイへ行きましょう」という妻の声に押され、良彰氏はハワイの農園開発を引き受ける決心をする。

人は多くの計画を立てる。が、ときには天は災難という形を取って、その人にあった道へ導いているかのようだ。

良彰氏はハリケーンの被害の始末をするために、しばらくジャマイカに残り、妻子に先にハワイに行ってもらった。

国防軍少佐のはからいで、妻子がジャマイカを去る前にヘリコプターに一緒に乗ってブルーマウンテン・ピークを見せることができた。

良彰氏は、ハリケーンで倒れたコーヒーの木をカットバック(根元から15〜30cmほどの高さで切ること、木の若返りや、大きさの調整のために行う)をした。他の生産者の多くは倒れた木にたくさんの実がついているのを見て、その実を収穫しようとしたが、収穫する前に木は枯れ、また苗から植え直さなければならなかった。カットバックした木は側枝を出し、2年後にはほぼ元通りの収穫量を取り戻すことができた。まさに急がば回れである。

 良彰氏が苗床づくりから手掛けたジャマイカの農園。5年目になってようやく美味しいコーヒーを作れるようになった。ハリケーンで倒れた木を復活させ、7年目にジャマイカからハワイへと移った。

 整地、苗床づくり、育てる、収穫、収穫した実の保存、コーヒー農園の基本は同じでも、風土が違うと前と同じようにはいかない。UCC上島コーヒーがコーヒー農園用の土地として用意したところは急勾配で溶岩が多かった。良彰氏は整地のためにダイナマイトで溶岩原を爆破し、盛り土をした。集中豪雨対策に一年草と多年草の芝生を植えた。それでも季節外れの集中豪雨のために、種子も土地も流され、整地からやり直しだ。収穫の時期になると観光業が盛んなハワイでは農業労働者をやりたがらず、人件費も高く、労働者確保に頭を悩ませた。一方、収穫した豆を入れた麻袋を縛るのにジャマイカではバナナやヤシの葉を使ったのだが、ハワイでは麻紐が簡単に手に入った。

 ハワイのコナのコーヒー産業を支えてくれたのは日系の人たち。が、発展途上国のコーヒーの比べ生産コストが高いコナ・コーヒーは競争力がない上に、後継者問題も抱えていた。

「同胞の日系人が担ってきたコーヒー産業を支え、コナの日系の人たちを元気づけたい」というのが、上島会長がハワイ島での農園開発にこだわった理由だった。農園開発だけではなく、他の農園のコーヒー買付も良彰氏の仕事となった。そうした生活の中で、生産者と日本を結ぶ架け橋となることが自分の使命ではないかと良彰氏は考えるようになった。

 ジョッキーとしてアメリカ本土で成功した日系3世のジョン・国武は故郷コナに帰り、コーヒーの生産工場を始めた。彼も「コナを元気にするために」とマラソン大会を始めた。なかなか人が集まらないのを見て、良彰氏が交渉して、UCCコーヒーにスポンサーになってもらった。スタート地点とゴール地点にテントを張り、ランナーや応援する人たちにコナコーヒーを振る舞った。評判は上々だった。 日系の人たちとの交流は苦労が多かった農園開発生活の潤いとなった。

 苦労はあったが、農園開発は順調に進んでいった。そういう中で節目となる出来事があった。

エルサルバドルで出会い、研修、ジャマイカでの農園開発と一緒に闘ってきた最初の妻と協議離婚をする。ハワイという先進国アメリカ合衆国の地。そういう平和な地にてお互いの生き方の違いに気づいたという。お互いに二人の子どもの親権をもった。今でも良彰氏は最初の妻を尊敬し、ともに生きた日に感謝しているとのことだ。

 前後して、良彰氏の農園開発の支援をしてくれた恩人、UCC上島コーヒーの創業者上島忠雄会長が亡くなる。思うに、上島会長は、良彰氏の上司であると同時に同士だったのではないだろうか。私は2013年2月、大阪で勤務医をしていた頃、「UCCコーヒー博物館」に寄ったことがある。種まきをしてから、収穫し、コーヒーとして口にするまでの過程が詳しく説明されていて、感動したものだった。コーヒーを愛するという点で、二人は同士だったのであろう。

 川島良彰氏が講演の中で、「コーヒーはフルーツです」と言っていたことが印象的だった。それを聞いてコーヒーの実を一度食べてみたい、コーヒー・ジュースを飲んでみたいという思いにかられた。

直射日光にも乾燥にも弱いコーヒーの苗。そのためシェードツリーと言われる大きな木の下に植える。
双葉が開き、何個か葉が出てきたら植え替える。(6~9ヶ月)
3~5年ほどで、白い花が咲く。
その花はジャスミンのような香りがするそうだが、3日くらいしか持たない。
そして運がよければ、8ヶ月ほどかけてコーヒーチェリーと呼ばれる果実をつける。
コーヒーの豆は順番に熟していく。熟したものから収穫する。
我々がコーヒー豆と呼んでいるものは、その実の種子である。
コーヒーチェリーは手摘みで取られ、多くは果皮と実をとって、種だけを乾燥させ、脱穀、選別、焙煎と手をかけ、ようやく出荷される。
その後もグラインド、抽出と続いて、ようやく我々の口に運ばれる。それをひいてドリップする。

手間ひまかけた贅沢な飲み物。

ときには、「コーヒーでも」とか、「コーヒーでいいわ」など言われ、チープで手軽な飲み物の印象があるコーヒー。そんな風潮の中、「特別な日に特別な人と飲むコーヒーがあってよい」と川島氏は言う。米はその字のとおり、八十八の手がかかっていると言われているが、整地、栽培、収穫、加工と米以上に多くの手がかかっていると思われるコーヒーという産物。

その人達に思いを馳せて味わって1杯のコーヒーを飲んでみたいものである。

P.S.この記事は5月中に完成する予定でしたが、川島良彰氏の人生の内容が充実していたため執筆に時間がかかり、一旦ここで公開することにしました。後編をお楽しみに。