コーヒーに生涯をかけている人ー後編|エルムクリニック 内科・消化器内科|長野県飯田市の内科・消化器内科

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コーヒーに生涯をかけている人ー後編|エルムクリニック 内科・消化器内科|長野県飯田市の内科・消化器内科

コーヒーに生涯をかけている人ー後編

 消化器内視鏡学会の特別講演でコーヒーに生涯をかけている人ー川島良彰氏-の講演を聞いて感動。ぜひ皆さんに紹介したくなったのだった。

前編では、ハワイのコナでの活動までを紹介した。

 ハワイ在住中に、UCC上島珈琲の創業者上島忠雄会長が亡くなったが、そのあとを継いだご長男の上島達司社長もコーヒー産業に心血を注ぎ、川島氏に次々に農園開発の仕事を任せ、それを応援した。上島達司社長は、プロジェクトを立ち上げるたびに、現場を訪問し、現地スタッフをねぎらってくれたという。しかも、コーヒー豆の原産地の多くは発展途上国の辺境の地にあるのだ。

 

 川島氏が39歳の時、本来の「マンデリン」を復活させるためにインドのスマトラ島の農園開発を任された。当時、川島氏はハワイ島のコナに自宅があったのだが、ハワイ島⇒オアフ島のホノルル⇒成田国際空港⇒シンガポール⇒スマトラ島メダン⇒悪路も含めて車で5時間間半かけてようやく農園予定地につくという気の遠くなる定期出張をくりかえした。奇しくも、「マンデリン」は中学時代に一番好きだった銘柄だった。独特の苦みがあったのだが、だんだんその苦みと風味がなくなり、特徴のないさっぱりした味に変わっていた。

 「所変われば品変わる」のことわざどおり、スマトラでの農園開発も、スマトラの風土にあわせなければならなかった。まずは、泥棒はいないが夜はスマトラ虎の襲撃を警戒しなければならなかった。海抜1200mの床が傾がるような掘っ立て小屋、日暮れ前にドラム缶にためた雨水のシャワーを浴びる生活。それでも、川島氏はコーヒー農園にいることが好きだった。

 文化の違いもあった。スマトラ島のあるインドネシアは多民族、多宗教国家。集落ごとに言語、習慣、宗教が違う。川島氏は集落ごとに分かれて作業にあたってもらい、宗教によっては祈りの時間を設けるなど、工夫した。私は「違いを受け入れて、みんなで仲良く」を歌っているが、現実にはそういう「きれいごと」では解決できないこともあるのだろう。

 しかも熱帯雨林気候。収穫したコーヒーチェリー(前編の写真参照)の果肉をとって乾燥させるのだが、スコールや夜露を避け、手際よくする必要がある。コーヒー豆は内皮に覆われ、その周りをミューシレージという粘着質の物質が付着しているのだが、かってはそのミューシレージをつけたまま乾燥させるセミウォッシュドという手法をとっていた。それが、ウォッシュドというミューシレージも取って乾燥する手法に変わっていた。セミウォッシュドは、半日程度の天日乾燥で済み、この地方の気候にあっていた。最初の乾燥をセミウォッシュドに戻し、内皮を脱穀したあとの乾燥には、天井に開閉式のビニールシートを使い、スコールの気配がしたり、夜になるとビニールシートを広げてコーヒー豆を守るという手法を使った。後者の方法は東アフリカとハワイの文化を取り入れたものだが、スマトラの人には新鮮に映ったようだった。 サビ病耐性種に変わっていたのをリントン種という元来のものし、最初の乾燥法をセミウォッシュドに戻すことで、中学生だった彼が好きだった「マンデリンコーヒー」を復活させることができた。

 

 スマトラ島の農園開発を任されて約4年後、アフリカのマラウイ政府からコーヒー生産地の視察と技術指導の要請があった。マラウイ国の隣国、タンザニアとモザンビークの東側には、川島氏がエルサルバドルの国立コーヒー研究所に知って憧れていたマダガスカル島とさらにその東側にレユニオン島があった。マダガスカルには「マスカロコフェア」というカフェイン含有量がほんのわずかしかない品種があったとのことだったし、レユニオン島にはブラジルコーヒーの代名詞になっていた「ブルボン」の原木があったらしかった。さっそく上島社長に、アフリカに行くついでにその二つの島に行ってみたいと直談判した。何も見つからない可能性もあることを話したうえで許可をもらった。こうして19歳のときから24年間あたためてきた思いが現実のものとなったのである。

 低カフェインコーヒーである「マスカロコフェア」。それが見つかったら、妊娠している人や健康上の理由でコーヒーを控えている人が安心してコーヒーを楽しめる!探すのに協力してくれたのは、日本の大手商社のマダガスカル営業所長のアレキシス。彼はマダガスカル人初の国費留学生として東京農業大学で学んでいた。わずかな情報を頼りに、20年以上前に放棄された実験区を探す旅を始めた。ジャングルの中を進む中、ワオキツネザルとも出会った。藪の中で1本のコーヒーの木を見つけたが、すでに枯れていた。諦めそうになる気持ちを押さえ、更に奥へ進んで行く。ヒョロヒョロとかろうじて立っている1本の木を見つけた。更に進んで、全部で43本の生き延びていた「マスカロコフェア」に出会うことができた。同行したアレキシスが川島氏のことを「コーヒーハンターだ!」と叫んだ。この日から川島氏は「コーヒーハンター」と呼ばれるようになる。

 「マスカロコフェア」と世界で1番出回っている「アラビカ」を交配させて低カフェインコーヒーを作ろうとしたが、交配実験をくり返しても収穫量は多くならず、味もよくなかった。だが、「マスカロコフェア」は川島氏に「コーヒーハンター」としての一歩を踏み出すきっかけを与えてくれたのである。

 ちなみに、現在出回っているカフェインレスコーヒーは、水抽出法( 生豆を水に浸してカフェインを含む水溶性の成分を抽出し、フィルター(活性炭など)を使ってカフェインのみを取り除いた後、その液体を別の新しい生豆に戻して味をなじませる安全性の高い製法)か、二酸化炭素抽出法( 高温・高圧で二酸化炭素を気体と液体の中間の状態にし、カフェインのみを溶かし出す方法。コーヒー本来の風味や香りを損ないにくいのが特徴)によって作られているようです。川島氏が独立してプロジェクトから離れたあとも、「マスカロコフェア」を交配させて、低カフェインコーヒーを作る研究が行われていたようですが、低カフェインコーヒー豆そのものが出ると面白いですね。

 次はマダガスカル島の東にあるレユニオン島へ。フランス領であり、元の名前はブルボン島。そこにはブラジルコーヒーの代名詞となっているブルボンの原種、「ブルボン・ポワントゥ」があったという。川島氏はわずかな望みをかけて、ジャトブ農政局長に交渉する。「現在主流になっているアラビカ種の50%がこの島をルーツとしている」と。

 レユニオン島はサトウキビとバニラがメインの輸出品だった。ジャトブ局長は、「ブルボン・ポワントゥ」が見つかれば、この島の目玉商品になると考え、積極的に協力してくれた。「ブルボン・ポワントゥ」探検隊に獣医師兼郷土史の研究家でもあるアレン・ゴティエが合流してくれた。川島氏が一旦島を去った翌年、「ブルボン・ポワントゥ」らしき木が見つかったという報告を受けた。更にその2年後、ジャトブ局長はフランス政府から「ブルボン・ポワントゥ」再開発試験栽培の費用として百万ユーロ(当時のレートで約2.5億円)を勝ち取ったのである。さらにその年の後半、採取した実で五万本の苗木を作り、どこが、どんな栽培条件が適しているかを調べるため、ボランティア農家を募った。加工方法はウォッシュド(スマトラ島産「マンデリン」の項参照)、天日干しに決めた。そんな中、探検隊に加わり、発見した「ブルボン・ポワントゥ」で苗木も作ってくれていたアレンが海難事故で亡くなった。

 レユニオン島を訪れて3年以上経ち、47歳になった川島氏は本社勤務になった。ハワイで再婚した妻と2歳になる娘を連れて帰国した。といっても年間140日前後は、生産地に行くため海外出張していた。本社勤務になった翌年、ついに「ブルボン・ポワントゥ」の収穫があり、すべてのサンプルが日本に送られてきた。

 いよいよ試飲。が、「ブルボン・ポワントゥ」はまずかった。原因は、豆の形にあった。「ブルボン・ポワントゥ」は小粒で、片方の先が尖っているので焙煎したときに焼き上がりが均等にならないのだった。焙煎実験を繰り返し、ようやく満足のいく味が復活した。

 さて、「ブルボン・ポワントゥ」のデビューである。レユニオン島ではコーヒーを入れる麻袋など手に入らない。米袋に「Cafe Reunion」と印刷し、産地、大きさごとに分けて入れた。大きさごとに分けたのは、均一に焙煎するためだった。それらの袋は空輸することにした。普通、コーヒー豆はコンテナ船で海上輸送されるが、レユニオン島と日本を直接結ぶ航路はなく、積替えや輸送の途中での品質劣化が予想されるため、空輸以外の選択肢はなかったという。収穫、選別、輸送、焙煎と細心の注意を払った「ブルボン・ポワントゥ」。その販売価格として、100g税込み7300円という価格を提案した。ちなみに、最高級の「ブルーマウンテン」でも100gあたり1500円~2500円が相場、一般のコーヒー豆では500円前後が平均価格だった。社内の大半が大反対だった。「価格の高さ」ばかりに意見が集中し、「最高級の品質」や「絶滅品種の復活」が会社のPRやブランディングとして捉える人が少ないことに川島氏はがっかりした。

 ところが、上島達司社長の一言で決まる。「これだけおいしいコーヒーだ。絶対売れると思う。⋯もし仮に売れなくてもいいじゃないか。こんな面白い取り組みを生産者の人たちとする会社だと、世間の人たちにわかってもらえれば十分だ」

 ここまで来ても「どうせ売れ残るだろう」というネガティブな空気が漂っていた。が、万全の準備を経て行われた帝国ホテルでの販売発表は大成功。川島氏は、「ブルボン・ポワントゥ」の植物学的な説明と開発過程をプレゼンテーションする役割を担った。社内で、選り抜きの焙煎師が会場でコーヒーを淹れる。サーブされたコーヒーを口に含んだ順に感嘆の声があがった。 100gの限定2千パック。販売された各店舗では長蛇の列ができ、買い損ねたお客さんからはクレームまで入った。

 「ブルボン・ポワントゥ」販売から約3か月経って、川島氏はプロジェクトに関わった人たちと農園の生産者たちに感謝の意を伝えるため、日本のコーヒー製品をお土産にレユニオン島に旅した。凝り性の日本人は様々なコーヒー製品を生み出していて、生産国のコーヒー関係者にはもっとも喜ばれるお土産だった。レユニオン島の人々も川島氏を「ムッシュ・ポワントゥ」と呼び、歓迎してくれた。宿泊したゲストでは、「ブルボン・ポワントゥのソースがかかった鴨のグリル」、「ブルボン・ポワントゥのケーキ」、「ブルボン・ポワントゥで作ったコーヒーリキュール」と「ブルボン・ポワントゥ」づくしでもてなしてくれた。滞在日最後の日、「ブルボン・ポワントゥ」発見、開発に貢献してくれたアレンの墓前に「ブルボン・ポワントゥ」を置いた。

 

 レユニオン島から帰国後、川島氏は26年間お世話になった上島珈琲を退職をした。51歳の時だった。前編に書いたように、川島氏はエルサルバドルの研究所時代、農園の人たちと一緒に働き、寝食をともにしたことがあった。その時、生まれたときからコーヒー園で育って来た彼らには叶わないと感じ、自分ならではの役割を探し続けてきた。エルサルバドル、ジャマイカ、ハワイ島のコナで農園の人たちと苦楽をともにしているうちに、生産国と消費国の架け橋になることが自分の役割なのではないか、と思うようになったという。尊敬する先輩にもそれを勧められた。コーヒー屋に生まれ、コーヒーに感覚的に馴染んでいる。消費国の事情にも精通している。気候、人種、文化、宗教、言語が異なる様々な国々でコーヒー農園の開発に携わってきた経験を持つ。スマトラ島ではかっての「マンデリン」を復活させ、マダガスカル、レユニオン島では絶滅の危機にあった種を見つけ復活させた。そういう川島氏にぴったりの役割だと。

 退職して1年、川島氏は(株)ミカフェートを設立し、コーヒーセラーのあるカフェ「ミカフェート」を元麻生にオープンした。そこでは、木の選別、運搬方法、保存から一切の妥協を許さない最高級のコーヒー「グラン・クリュ・カフェー」を提供している。「グラン・クリュ(GRAND CRU )」とは、フランス語で「特級畑」や「偉大な畑」を表し、もともとはワインのランクに使われていて、最高級の品質を表す。コーヒーセラーの温度は18度に保たれ、淡緑色の生豆が静かに出番を待っている。注文が入るとその豆はていねいに焙煎され、香りを逃がさないようにシャンパンボトルに詰められる。

    

 「グラン・クリュ・カフェー」は最高級のコーヒーであり、上記のように直前に焙煎してシャンパンボトルに詰められる。が、いつも、豆を挽いてゆっくり入れることができるわけではないし、経済的な制約がある場合も多い。川島氏は、気楽に味わうことのできるコーヒーにも力を入れている。気楽さの中でも、品質を保つ工夫をしている。

 JALからファーストクラスの乗客に「グラン・クリュ・カフェー」を提供したいという申し入れがあった。川島氏は「グラン・クリュ・カフェー」は豆でしか売らない方針でいたが、機内で豆を挽くことは無理だと判断し、結局フレンチブレスを採用した。微粉がカップに残ってしまう問題があったが、挽いた豆をふるいにかけて取り除き加圧包装して搭乗させた。(のちに、工業用金属フィルターの世界トップメーカーの富士フィルター工場の社長と巡り合い、フレンチブレス用のフィルターを開発させることができた)CAたちは、全面的においしいコーヒーを入れる訓練に協力してくれた。こうして、機内で「グラン・クリュ・カフェー」を提供することができ、おかげでその頃のファーストクラスの乗客数が最高記録となったそうだ。

 ファーストクラスだけではなく、ビジネスクラスでも、エコノミークラスでも、おいしいコーヒーを提供したいという申し出を受け、ビジネスクラスではドリップバック式、エコノミークラスでは、インスタントコーヒーを使うことにした。質のいいドリップバックを作るために、焙煎、粉砕、パッケージを短期間で行い、機内の圧に耐えられるフィルムとシーラーを探し出し、加圧包装した。エコノミークラスのインスタントコーヒーも原料や入れ方にこだわった。こうしてJALではすべての線でおいしいコーヒーを提供できるようになったのである。

写真左はコーヒー好きのスタッフへのお土産、右はドリップパックがカップに入り込むのを防ぐための器具を使って、コーヒーを入れたところである。川島氏は「グラン・クリュ・カフェー」は、生豆を直前に焙煎する形でしか売らない。その次のランクを”Premier Cru Cafe”としてドリップパックとして、学会会場に売っていたのである。

川島氏は高級品にとどまらず、リーズナブルなコーヒーにも手を抜いていない。例えば、コーヒーを輸送するコンテナにただの鉄の箱のドライコンテナと温度管理のできるリーファーコンテナがあるが、後者を使っている。リーファコンテナのほうが運賃が3倍も割高になるが、コーヒー豆1Kgあたり、たった15円の差、コーヒー1杯あたりにすると0.18円の差という。わずかな額を惜しんで、コーヒーを劣化させていることを憂いている。私も川島氏の考え方に賛成である。経済的に困っているときに高級品志向になる必要はないが、少しの差であれば、物事の仕上がりがよくなる方を選びたいものである。

 

 手間暇かけて質のよいコーヒー豆を生産している人々を応援するために、川島氏は、「サスティナブル」なコーヒー生産を信条としている。よく言われるフェアトレードとも違う。フェアトレードは農業協同組合に対しての認証であるが、川島氏は個人農園主をも応援する。なお、フェアトレードもサスティナブルの考え方も、生産者から買いたたかず、適正な値段で購入するという方針は共通しているが、フェアトレードは生産者や労働者の生活を支えるというボランティア的な側面を持っているが、川島氏は品質に対して適正な価格を払うという考え方から行っている。

 上の写真は前編にも載せましたが、上の二つは、このブログを書くために参考にした書物です。右上の「私はコーヒーで世界を変えることにした。」という本の帯に「自分の仕事を愛し尽くす︙男の真の幸せとは、こういうことなんだ!」と書いてあった。女の真の幸せも、「自分の仕事を愛し尽くす」ことでしょうか?それとも、「自分の仕事を愛し尽くしている男性とついていく」ことでしょうか。女性が多様な生き方ができるようになった現代、みなさんはどう考えますか?

 

 川島氏のように学童期から一筋に一つのことに打ち込んできた人は少ないだろう。一方で、挫折したり、迷ったり、停滞した人にも、逆にその経験を生かしたそれぞれの役割があると私は考えている。人生遅すぎることはない。皆さんのこれからの人生を豊かにするきっかけとなることを願いつつ、川島さんの生きざまを紹介しました。